今は看護師として働きながら、自分のやりたいことや生きがいを見つけ
充実した日々を送っている40代男が、当時書いていた日記をもとに
闘病生活を振り返りながらパニック障害や鬱からの脱出方法などを
同じように苦しんでいる方々に伝えていきたい、そんな内容となっています
まずはパニック発作を起こすまでの経緯をお話しします
僕は頭が悪く(正確には勉強が嫌いで)成績が良い方ではなかったので
進学できそうだった高校は、柄の悪そうな工業高校と女子が多い商業高校
もちろん僕は後者の商業高校に進学
親にはずっと公務員になれ!と言われてましたが、それをガン無視して卒業後は
興味のあったパソコン系の専門学校に通いました
が、今では自宅でもできる副業としても人気のプログラミングを挫折
(難しかったー(笑))
デザインを頑張って東京での就職活動をしましたがそれも失敗。
そこで祖母の「ずっと近くにおってくれ」という言葉で
大好きな祖父母のいる地元に残ることを決め、心機一転、
何も知らずわからずのまま地元の有名チェーン店の美容師の道に飛び込みました。
なんで急に美容師かっていうと、動機はやりたいことがなかった時に友達に
「俺って仕事何しているように見える?」って聞いた時の回答だったからです
(単純)
でもそのおかけで、最初の店で働いていた同じ同郷の今の妻と交際できました。
7年の交際を経て結婚し、妻は先に独立。
1年後に後を追う形で僕も退職し、妻の店で働くことにしました。
今思えばこれが悲劇の始まりだったのかもしれません。
結婚して約1年後に第一子の長女が誕生して直ぐ
世界で一番大好きだった祖母が癌で他界。なかなか立ち直れず、
打ちひしがれる日々が約3か月以上続きました。
何とか立ち直り、約2年後の春に第2子の長男が誕生。
間もなくして妻の長年の夢だったマイホーム作りがスタートしますが
意見と価値観の相違から大喧嘩連発。
同じ店で働いていたので24時間ずっと一緒ということもあり
喧嘩もエスカレートしていきました。
仕事や日常生活にも影響が出てストレスが溜まりまくりでしたね。
夢のマイホーム兼美容室が着々と建築中の中、
車椅子生活なのに独り暮らしで頑張っていた祖父も
完成を待たずして他界してしまいました。
祖父母の死は本当に精神的ダメージも強く、
今後の人生を考える上でも非常に影響が大きかったです。
そんなストレスフルなある日の夕方頃、
最後のお客様の髪をドライヤーで乾かしていると
いつも考え事をする際に頭の中で聞こえている自分の声
(後に解離性障害と知る)
が突然どうしようもなく嫌になり、聞きたくないけど聞こえる。←これも聞こえる。
どこかへ逃げたいけど頭の中の声は聞こえ続ける。
どうしよう。どうもできない。でももう嫌だ。助けて。助けて。←これも聞こえる。
俗に言う”パニック発作”を起こしてしまいました。
気絶しそう。するはず。と思いましたが一歩手前で妻と会話して
頭の中の声をかき消すことに成功し、気絶はせずに済みました。
仕事が終わって直ぐに病院へ行き話を聞いてもらい、
安定剤をもらって服用し何とかその日は落ち着きましたが
ここから長い闘病生活がスタートしてしまいました。
パニック発作はその後も続き、精神を蝕んできました。
安定剤を飲み、ボーっとしてるか眠っているかの日々。
もちろん仕事もできないし、外で発作が起きたらと思うと
怖くて外にも出れない。いわゆる”ひきこもり”状態でした。
食べては眠り、眠っては食べ、薬の副作用もあり体重も20キロ以上増えました
(今は何とか標準体重までは落とせてます((;’∀’))
そんな日々にとうとう妻が「入院してほしい」と。でも僕は断固拒否。
なぜなら個人的には自由で不自由ない家での暮らしが一番だし、
何より子供たちと離れるのが嫌だったからです。
でも妻的に今の夫は”家事も仕事もせず、ただ飯食って寝てる
“ひきこもり”でしかなく、子供たちの世話も相まって
今度は妻がストレスフルになっていたのです。
そんなことにも気づかず自分のことで精一杯だった僕は
ずっと拒否し続けていましたが、ある日突然両親が説得に来ました。
3人から真顔で言われたら断ることができずに嫌々了承し、
明日からの入院が直ぐに決まりました。
次回からは入院初日から綴った日記と感想を綴っていきます。
よろしくお願いします。
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